四日市萬古焼の継承と発展、地域の活性化。ばんこの里会館は萬古陶磁器振興協同組合連合会が運営しています

萬古陶磁器振興協同組合連合会
TEL:059-330-2020
ポッター君
ばんこの里会館ご案内
リンク
にじいろ堂
会館のご利用・お問い合わせ
TEL:059-330-2020
AM9:00~PM5:00【月曜休館】

メールでのお問い合わせ
メールでのお問い合わせ
萬古焼の歴史

文人趣味から生まれた萬古焼

萬古焼(ばんこやき)とは、陶磁器・焼き物の一つで耐熱性に優れた特徴を持っています。
三重県四日市市の代表的な地場産業として伝統工芸品に指定されており、耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名です。特に土鍋の国内シェアは、7、8割を占めると言われています。ここではその萬古焼の発祥に始まり現在に至るまでの歴史と経緯をお伝えします。

 

江戸時代1【古萬古】

■ 萬古焼の始まり
室町時代に、楽市楽座の自由商業都市として栄えた桑名の有力な回船問屋沼波家[ぬなみけ]は、陶器専属の問屋で、当時茶碗として有名だった伊勢天目[てんもく]を扱った。その沼波家が江戸時代に作り始めたのが萬古焼である。屋号の萬古屋から命名した「萬古」「萬古不易[ばんこふえき]」の名は、何時の世までも栄える優れた焼き物という意味であり、伝統は現在に受け継がれている。

■ 弄山[ろうざん]による開窯
沼波家の跡取りとして享保三年(一七一八)に生まれた五左衛門弄山[ろうざん]は、幼いころから茶道に精進した茶人で、その茶趣味が嵩じて朝日町小向[おぶけ]に萬古焼を開窯したのは元文年間(一七三四~四〇)のことである。陶法は、京焼技法に習い、特に尾形乾山[おがたけんざん]に多くを学んだ。内外の茶碗の写し物をはじめ、華麗な色絵を主体とした優美な作品を生み出した。古萬古と呼ぶ。

■ 江戸進出
弄山[ろうざん]によって始まった萬古焼は、陶器問屋沼波家の今川橋詰にあった江戸店で売り出された。当時の焼き物の中にあって際立った斬新さの古萬古は、有産階級や知識人の間
で人気が上がり、遂に将軍家からの注文を受けることになると、江戸小梅の地に窯を設け、宝歴年間(一七五一~六三)には、弄山夫婦も江戸に移った。これを江戸萬古という。

■ 紅毛趣味
はじめ有名茶陶の写しものから出発した古萬古は、上絵付けによる赤絵ものに特色を発揮した。当時は、八代将軍吉宗による洋書解禁の令によって、入ってきた蘭書による蘭学[らんがく]の広がりをみた時期があった。平賀源内を代表とする当時の知識人は、競って外国の文物に憧れていた。弄山も同様の知識人で、オランダや異国の風物を描いたり、作品の形に工夫を凝らした。

■ 赤絵の図柄
古萬古の優品は、上絵の具による赤絵ものに多い。図柄のベースは、更紗[さらさ]模様である。更紗とは、外国より入ってきた染物のことで、当時のファッションであった。更紗柄の中に支
那風景、麒麟[きりん]、飛龍などの想像の動物を描き、オランダの銅版画を写したライオン、象、オウムなどの絵やオランダ文字を配した作品もある。透明な絵具による異国情緒の世界だ。

■ 古萬古・銘印[めいいん]
古萬古は、「萬古[ばんこ]」「萬古不易[ばんこふえき]」の印を押したが、それは沼波家の屋号に俳聖芭蕉[ばしょう]の「不易流行」の考えを加味したものである。萬古印は、裸のものと小判型のものの大小があって、字体が微妙に異なる。全て楷書である。他に異形の篆書体[てんしょたい]のものがあり、茶陶[ちゃとう]の写し物に多く用いている。原則として、古萬古は有印であるが、中に無印のものも存在する。

 

江戸時代2【有節萬古】

■ 萬古焼の再興
古萬古が後継者のないままに廃絶してから、三〇数年後、桑名の古物商森有節[ゆうせつ]、千秋[せんしゅう]の兄弟によって、古萬古ゆかりの朝日町小向[おぶけ]で再興された。手器用な兄弟の工芸的手腕を見込んで、弄山の子孫が勧めた為と伝えられる。兄の有節は木工を得意とし、弟の千秋は発明工夫の天才であった。兄弟の協力によって天保二年に築窯し翌年(一八三二)に開窯した。

■ 再興萬古の工夫
古萬古の時代に比べて、世情は大きく変わりつつあった。抹茶趣味に代わって煎茶が流行し、外国憧憬より国粋を尊ぶ国学が盛んとなった。それに応える為に、華麗な粉彩[ふんさい]による大和絵の絵付けと、煎茶に必要な急須を木型で成型する法を考案して、東海道の旅人の土産物として売り出した。その特異性は大人気となり繁盛した。桑名藩主はこれを保護奨励した。

■ 木型成形法
急須作りに、有節は得意な木工の技を駆使して、提灯[ちょうちん]作りの木枠[きわく]からヒントを得た精巧な内型を作った。心棒と八枚に分解するこの型に、棒で伸ばした薄い土を貼り付けて成形する。型に刻まれた竜の紋様が急須の内面に現われる考案は、意表を衝くものであった。一ケ所でないと外れない蓋[ふた]、ぐるぐる回る蓋の摘[つま]み、取っ手の遊環[ゆうかん]などは千秋の考案である。

■ 粉彩絵付[ふんさいえつ
尾張の画家田中訥言[たなかとうげん]の提唱した復古大和絵の妙手、帆山唯念[ほやまゆいねん]、(花乃舎[はなのや])が桑名にいた。花乃舎に学んだ兄弟は、大和絵の花鳥の絵を艶やかな粉彩絵の具で描いた。この絵の具は、不透明で、重ね塗りや盛絵ができる。そのベースは、白絵土[しらえづち]による白である。これに顔料を点[てん]じて各種の色彩をだす。中でも金を原料とする腥臙脂釉[しょうえんじゆう]のピンク色は、艶やかだ。

■ 有節萬古・銘印[めいいん]
几帳面な有節は、自身で銘印を刻んだと伝えられる。素人ながら印は完璧である。古萬古の印を踏襲「萬古不易」丸型篆書[てんしょ]の「萬古」があるが、字体が優しい。普通の「萬古」印は、裸印は少なく、中型の小判印を多用し、「摘山[てきざん]」「有節]「萬古有節」があり
「日本有節」の印は、海外への発展を希求[ききゅう]したものだ。千秋には別種の印がある。

 

江戸時代3【再興萬古】  文人趣味から産業へ

■ 桑名萬古
有節の考案した木型成型の急須は、よく売れた。その秘密にしていた陶法が、桑名の木型師佐藤久米造に漏れると、それを模倣追随した沢山の有節亜流の陶芸家が桑名周辺に現われて、売り出した。中には有節萬古と一味違うたたみ作り、土型成型の精巧なものを作る者がいた。布山[ふざん]、孫三郎[まござぶろう]らである。幕末から明治初年にかけて、最も盛業であった。

■ 射和萬古[いざわばんこ]
古萬古の沼波家の姻戚[いんせき]にあたる南勢射和[なんせいいざわ]の経世家竹川竹斎[けいせいかたけかわちくさい]が、安政三年(一八五六)に射和萬古を開窯した。彼は有節萬古の成功に目を付け、殖産事業にしようと、資力を注ぎ、井田吉六、[いだきちろく]、奥田弥助[おくだやすけ」、近藤勇[こんどうゆう]、服部閑鵞[はっとりかんが]らの名工を雇い入れての陶業であった。だが、製品は優れていたが、格別の特色がないために、目論見通[もくろみどお]りに捌[さば]けず、七年で廃窯となった。

■ 阿漕焼[あこぎやき]
古萬古の陶工良介(浪々瑞牙[ろうろうずいが])が津の藤堂藩に招かれ、安東の地で古萬古の姉妹品に「古安東[こあんどう])を産み出したが、わずかで廃業した。これを惜しんだ津の油屋倉田久八[くらたきゅうはち]が「再興安東」を始めたのは、嘉永六年(一八五三)のことである。射和萬古の職長もした信楽の陶工上島弥兵衛の協力を得た。後に「阿漕焼」と改名し、窯主が度々変わって現在に至る。

 

明治時代 【四日市萬古】 四日市萬古の隆盛と貿易の広がり

■ 四日市萬古の始まり
四日市には、有節萬古より前の文政一二年(一八二九年)に信楽焼風の雑器窯が東阿倉川唯福寺[ゆうふくじ]に始まっていた。海蔵庵窯[かいぞうあんがま]という。後に、ここに来て焼き物の手ほどきを受けた末永の庄屋山中忠左衛門は、有節萬古に憧れていた。嘉永六年(一八五三)には、邸内に窯を築いて、有節萬古の研究に本腰を入れた。その二〇年に及ぶ苦労が四日市萬古の始まりである。

■ 山中忠左衛門[やまなかちゅうざえもん]
海蔵川、三滝川に挟まれた地区は、毎年水害があり、年貢も滞[とどこお]るほどの困窮民が多
かった。これらの人々を救済するために、萬古焼を地場産業として導入するのが、山中忠左衛門の願いであった。苦労して得た技を惜しみなく公開したために、萬古業者が次々と現われ、手捻りの半助、利助、豊助、木型の庄造、ロクロの佐造らが育ち、家内工が激増した。

 

明治時代 【明治萬古】

■ 川村又助[かわむらまたすけ]
一時、滞貨した四日市萬古の販路を開いたのは、もと薬屋の川村又助であった。明治八年(一八七五)に萬古問屋を創業した彼は、優れた商才の持ち主だった。「原料に金が入っている」と言葉巧みに急須を売る話とか、意表をつく外人の接待など多くの逸話が残っている。やがて製造も始めた彼の活躍は、四日市萬古を四日市を担う産業に発展させた。

■ 堀友直[ほりともなお]
水車町で山中が本格的に開窯した明治三年(一八七〇)に四日市と東京の間に蒸気船の航路が開通した。その繁昌を見て、桑名萬古の一員であった元長島藩家老堀友直が、翌年、三谷で開窯することで、四日市萬古の地場産業としての基盤ができた。阿倉川の白土を原料に、木型、土型を駆使して、文明開化の雰囲気のあるものを量産し、内外に売り出した。

■ 地場産業としての発展
山中忠左衛門の困窮民救済の悲願と努力で、四日市に根を下ろした萬古焼は、堀友直、川村又助らの優秀な企業家の出現によって、内需は勿論、輸出も盛んとなり、地場産業として定着した。業界の一層の発展を期し、不当な競争を避け、品質の向上を計って萬古陶器商工組合が結成され、品評会も行われた。明治二十年の東海道線、二年後の関西鉄道の開通によって、販路は広がり隆盛となった。

■ 商業組合の設立
激増した萬古焼業者は、やがて同業者間の不当な競争から確執[かくしつ]が生まれた。これを解き、仕入れ、販売の情報を交換し、業者の専製権、専売権の規定を定め、粗製乱造の悪弊[あくへい]を正して、四日市萬古の質の向上発展を計ろうと、明治一八年(一八八五)に、川村又助、堀友直、森欣太郎[もりきんたろう]などの有力者によって、萬古陶器商工組合が組織され、品評会も開かれた。

■ 赤萬古
突飛なデザインの明治四日市萬古は、山中、堀、川村らの努力によって海外に大量に売り出された。その原料は、垂坂[たるさか]山を中心にした阿倉川、羽津地区の白土だった。緻密で粘着力のあるこの土が、明治中頃に枯渇すると、残る鉄分のある土による轆轤[ろくろ」製の紫泥急須[しでいきゅうす]に、製品転換が行われた。この赤萬古の製法は、美濃赤坂の温故焼[おんこやき]との協同によって生まれた。


大正時代 【大正焼】 近代産業としての発展

■ 大正焼
明治末期になると、盛業であった四日市萬古も不況に悩むことになった。これを新製品を開発することによって、打開しようと西洋の硬質陶器の研究がはじまった。日露戦争で現物を実現した水谷寅次郎[みずたにとらじろう]は、長年の苦闘の挙句、石炭窯による簡単な半磁器式特殊硬質陶器を産み出した。丁度、改元[かいげん]の時であったので「大正焼]として売り出し、大成功した。

■ 大正焼の開発と展開
明治末の萬古業界の不況を打開したいとの念願から水谷寅次郎が生み出した大正焼は、始めは、品質が悪く使用に堪えないものが出た。大正初年にやっと製品の安定をみたが、それまでの一五年間は、苦闘の連続であった。原料も当地より採掘の単味粘土[たんみねんど]から、各地から移入の調合原料となり、松割木を燃料とする登窯から石炭を燃料とする倒焔式[とうえんしき]の石炭窯に変わった。製品の販路は、爆発的に拡大した。

■ 機械化の進展
成功した大正焼は、火鉢、水盤、大型土瓶[どびん]に特製を発揮した。土瓶は全国陶産地の第一位を占め、水盤は競争品なく独占的であった。急増した需要に応えるための量産には、製造工程の機械科が必須である。先ず美濃瀬戸から機械ロクロが移入され、石膏型使用による流し込み成型法、圧搾機[あっさくき]による製土、プレス機による匣鉢作[さやばちづく]りの法が取り入れられた。

 

昭和時代 【軽質陶器・硬質陶器】

■ 軽質陶器の登場
昭和初年の不況時に、輸出陶磁器の滞貨が増加し、業者の濫売[らんばい]競争が興[おこ]り、共倒れの様相を呈した。その対策として、各地に工業組合が生まれ、日本陶磁器工業組合連合会によって、製品の製造と販売の統制が実施された。昭和七年に、統制外の軽質陶器が生まれた。これは、笹岡伊三郎、塚脇鉄次郎の協同考案による石灰質陶器であり、昭和一六年の太平洋戦争勃発まで作られた。

■ 硬質陶器の完成
大正焼の創始者水谷寅次郎は、英国で考案された硬質陶器を四日市に実現させるのが目的だったが、工場の規模、設備、技術の点で中小企業者には無理な企てであった。その途中に生まれた大正焼の製造に関わっていた東阿倉[ひがしあくら]川の山本増次郎は、本格的硬質陶器に執着し、大正末頃から研究を続け、昭和二年に完成し、その後も、改良研鑽[けんさん]を重ねて大成させた。

■ 戦時下の萬古焼
生産額の六〇%を占めていた対米輸出が途絶え、その他の輸出、内地向品の売れ行きが減少した業界は、途方に暮れた。そこで戦時下に必要な製品に転換することになり、耐火煉瓦の製造が始まった。これは海軍工廠[こうしょう]に納入された。金属の代用品、酸化鉄を焼成して鉄に還元する海綿鉄の試作、航空機用碍子[がいし]、暗渠[あんきょ]排水の土管も製造された。
人出不足に、芸妓が挺身隊として陶器造りに献身した逸話も残っている。

■ 焼け跡からの復興
昭和二〇年六月一八日の大空襲で、萬古焼の製造設備の約八割と販売業者の施設の殆どが焼失した。残ったのは羽津[はず]、阿倉川地区のみ。終戦時の物資不足とインフレの中、罹災者も元の地に帰り生産を始めた。戦後の好況と業者の熱烈な復興心によって瞬[またた]く間に戦前の勢いを取り戻した。中でも相次ぐトンネル窯の築造、白雲[はくうん]陶器の完成は特筆すべきである。

■ 戦後の製品の変化
戦後、輸出向品は国際関係上各種の制約をうけて、伸びなやんでいたが、米国向の品は徐々に活況を呈してきた。昭和二三年白雲陶器の大量生産に成功したことや、四日市研究所における「ボンチャイナ」の製品化に成功したことなどが戦後における四日市陶磁器工業の発展に少なからぬ貢献をした。しかし製品の中心は大正焼の系統をひく半磁器であり、玩具や置物などのノベルティー製品の生産が伸張していた。

■ 時代のニーズに応える萬古焼
戦後の混乱期が過ぎて、どの家庭にも平和と生活の安定が訪れたのであろうか、盆栽愛好者も次第に増え植木鉢の需要が高まった。又、家庭の必需品としての鍋食器の新たなる製品開発を推し進め、四日市萬古焼の最も誇りとする商品に育て上げた。他にも終戦となるやいち早く生産を開始した花器類が安定した全国シェアを占め、昭和五〇年代には八〇%に達しようとしてる。他にも皿鉢、急須等生活と密接に結びついた生活陶器を生産している。

■ 伝統工芸品の指定
昭和五四年に四日市萬古焼は、通商産業大臣から伝統的工芸品として指定された。その内容は、

(1)「四日市萬古焼」の統一名称
(2)茶器を主とした用途
(3)伝統的な製造工程
(4)伝統的な技術又は技法

1.ロクロ、押型、手ひねりによる成形
2.透[す]かし紋、びり、千筋など一四種類素地[したじ]の模様付け
3.釉[ゆ]薬掛け
4.盛り上げ、ぼかし、たたき、イッチン、線描きなどの和絵具[わえのぐ]
 金銀彩絵具[いろえのぐ]による上絵付け
5.原材料
6.四日市市を中心とした製造の地域である。